三重県多度大社『上げ馬神事』の行く末と動物愛護の闇

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三重県にある多度大社で通例毎年行われる『上げ馬神事』に批判が集まっている。いわばSNSを中心に炎上状態にあるこの行事について私達は何を考えるべきなのだろうか。

『上げ馬神事』とは、三重県にある多度大社と猪名部神社で毎年行われている約700年の歴史を持つ伝統行事で、県の無形民俗文化財に指定されている。今年はコロナウイルスでの休止を経て4年ぶりの開催となる。神事では青年が馬にまたがり、約2mの急な土壁を乗り越え、その回数などで豊作や吉凶を占うというもの。

『上げ馬神事』に集まる批判

骨折など重症を負った場合には馬を安楽死させることも少なくないこの神事について動物愛護などの観点から批判が多く集まっている。

動物愛護法違反の疑いがあるとして、6月には動物愛護団体が神事の関係者130人超を三重県警に刑事告発した。ただし動物愛護法違反で告発しても98%は不起訴となるのが現状とのことである。

 

信じに対する意見は様々あると思うが本質的な大きな状況の変化下記の2点だと考えられる。

1、インターネットの発達で多くの人にその存在が知られるようになったこと

2、SNSで個人の意見が表現化・可視化されるようになったこと

これにより、便乗批判も含めて状況が加熱している状態に歯止めが効かなかったのではないだろうか。

『上げ馬神事』は取りやめるべきか

動物愛護派の主張は

動物愛護派の主張としては主に、馬をムチや棒で叩いて無理矢理斜面を駆けさせて怪我を負えば安楽死させる「命の使い捨て」が動物愛護の観点から容認できないというものだ。

 

これについてはもっともな主張と言えるが、炎上となっているSNS上の多くの意見は単にかわいそうという程度のものがその殆どを占めている。

炎上は所詮炎上

上記の「命の使い捨て」という言葉には違和感を感じる。この言葉を動物愛護団体が使ったのか、ネットニュースが面白がっていい出したのかは定かではないが、宗教的な観点から言えば使い捨てられているのではなく意味のある死とも言える。

その解釈はともかくとして、要するに批判側の多くの意見は神事自体にどういう意味があるのかというような部分を理解せずに、いわば感情論的に動画だけを見て可哀想だとか、そのレベルの主張に過ぎない。

 

動物愛護というのであれば、動物実験やペット業界の生産現場のほうが遥かに悲惨に多くの命が失われているわけだが、それらが今回のように大々的に批判されることはあまりない。知られていないからだ。

このように、自分たちが主張する動物愛護自体についても実態を調べてすらおらず、ただニュースで拡散され眼の前に転がってきたから噛み付いたというような動機での書き込みがほとんどと言えるだろう。

 

 

そういう意見は無視すればいいと言うのは極論だが、果たしてまともに取り合う必要のあるレベルの”質”があるといえるのだろうか。

SNS上で近年多く取り沙汰される誹謗中傷と同様に、投稿した本人は大した意志もなくその時の感情で書いているだけというのがSNSだ。過剰に取り合おうとすること自体が間違っていると言えるだろう。

伝統行事を守るために

伝統行事はSDGs・LGBT・ビーガン・動物愛護・オーガニックというような一時の流行り思想から不可侵であるべきではないだろうか。ましてやSNSの投稿や視聴数を稼ぐために煽るだけのニュースのようなものは主張としての”質”がともなっていないという事実が一般認識として膾炙されるべきであろう。

 

神事が始まったのは700年もの昔、戦場など馬が死ぬということは今より身近であり現代とは状況が変わっていることだろう。しかし反対に馬は今よりも遥かに身近な存在でかつ人々にとって大切なものであったことは想像に難くない。それでも祈りのために始められたのがこの神事だったことだろうが、それが今何も理解していないただ数が多いだけの意見で消えようとしている。こういう前例ができればすべての伝統行事はたまたま炎上したというロシアンルーレットのような理由で中止となるリスクが有るということになる。

 

伝統行事は一時の流行り思想から不可侵であるべきだ。

伝統行事『上げ馬神事』と炎上のまとめ

近年SNSが生活の一部となっている人も少なくないだろう。

コミュニケーションツールとして、情報発信の場として有用なツールではあるものの、現状の社会はこのツールを神格化しすぎている風潮を感じる。

例えばTwitterに投稿されるTweetというのは「つぶやき」という意味で、文字通り多くの場合それ以上の意味を持たない。仮に著名人に対して「死ね」という投稿があったとしてもそれは文字通り道端で誰にとも無くつぶやく程度の意味しかなく、本当にその人に危害が加わることを願っている場合などは殆どないわけだが、これを受け取り手側が過剰に受け取ることで実際に自殺などの問題が起こっている。結果として誹謗中傷だとして呟いた人が今度は責められるわけだが、そもそもの前提解釈が間違っている印象が強い。

 

SNSの投稿というのは、果たして実際に考慮する必要のある意見なのか。いちどSNSというものの立ち位置について社会で考えるべきなのではないだろうか。

動物愛護とは

最近このようなニュースが話題となった。

猫を殺した容疑で大学生が動物愛護法違反容疑で逮捕されたというものだ。猫を惨殺した上に解体して肉を食べる様子をYou Tubeに公開した猟奇的な動物虐待事件。

産経新聞の記事によると、「罠にかかった猫の頭をバールで殴って足で踏みつけ、猫の腹に容赦なく刃物を突き立てる。」というような表現で犯人の残虐性を煽っている。

しかし、「罠にかかった獲物を鈍器で絶命させ内蔵を取り出す処理を行い開催の際必要であれば足で抑える」などというのはイノシシやシカなどの狩猟でもごく一般的に行われる作業手順である。

 

この行為をどう考えるかは別にして、こういった印象操作に無知故に簡単にのせられてしまうことは避けるべきではないだろうか。

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